ピアノ連弾
秒針の止まった夜
What the Watchmaker Kept
- 演奏形態
- ピアノ連弾
- 楽器
- ピアノ
- ジャンル
- ジャズ / ノベルティ・ピアノ
- 難易度
- 中級
- 演奏時間
- 約1分06秒
- ページ数
- 3ページ
- 整理番号
- AP-HB5YJ
この曲について
閉店間際の時計屋から懐中時計を抱えて雨の路地へ逃げ出す一夜を、無声映画の追いかけっこに付く伴奏のように描いた、ト長調・2/4拍子の小さなソナタ形式による連弾曲です。セコンドが拍の裏表で刻むスタッカートの秒針に乗って、プリモが時計屋の主題をちょこまかと弾き回り、言葉に詰まるような休符やフェルマータの間で笑いを誘います。曲には、16分音符の連打で鳴らす雨音、石段を駆け下りる下行音階、遠くで鳴るサイレンのトレモロなど、音で描いた場面がいくつも出てきます。展開部ではセコンドが主題をホ短調で慌てて真似し、竜頭を巻く長いトリルから半音ずつ詰め寄ります。sfz に続く全休止や、コーダでグリッサンドが滑り落ちたあとの間は、二人で息を合わせて待つほど笑いが大きくなり、最後に pp で置く「チッ」という一音もオチとして効いてきます。
物語
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閉店の札を返そうとしたとき、ドアベルが鳴った。
「預けていた時計を、受け取りに来ました」
男は濡れた傘を畳みもせず、入口に立っていた。三十代半ば、灰色のコート。澪は帳簿をめくる。預かり票の名前は篠原。日付は二か月前。父が亡くなる、ひと月以上も前だった。
「父が受けた仕事ですね。少しお待ちください」
奥の棚から小箱を取り出す。中には古い懐中時計。裏蓋に、見覚えのない頭文字が彫られていた。K・S。
「動くようになっていますか」
「父の手帳には、修理済みとあります」
澪が竜頭を巻くと、秒針は確かに動き出した。けれど、蓋を閉じる指先に違和感があった。裏蓋がわずかに厚い。時計職人の娘でなければ、気づかない程度に。
男の目が、その指先を追っていた。
「何か」
「いえ」
澪は笑ってみせた。父は心臓発作で、作業台に突っ伏したまま見つかった。警察は事件性なしとした。けれど澪はずっと、父の右手に握られていたピンセットのことが引っかかっていた。父は仕事を途中で投げ出す人ではなかった。
「お代は前金でいただいています。どうぞ」
男は時計を受け取らなかった。
「開けてみてくれませんか。裏蓋の内側を」
澪は息を止めた。
「あなたも、気づいているんでしょう」男は低い声で言った。「その時計は、僕の兄のものです。兄は二か月前、港の倉庫で死にました。事故として処理された。兄は死ぬ前に、これを修理に出したと言っていた。何かを隠すために」
雨音が強くなる。澪は作業台の灯りをつけ、蓋開けを差し込んだ。二重になった裏蓋の間から、薄く折られた紙片と、小さなマイクロSDカードが滑り落ちた。
紙片には数字の羅列と、父の筆跡でひとこと。〈預かり主以外に渡すな〉。
「父は、これを見たんですね」
「たぶん。そして、誰かがそれを知った」
澪の背中を冷たいものが這った。父の死は、この時計のせいだったのか。目の前の男を信じていいのかも分からない。預かり票の名前は篠原。けれどこの男が本当に篠原だと、誰が証明できるのだろう。
「身分証を見せてください」
男は黙って運転免許証を差し出した。篠原透。写真は本人だった。それでも澪の手は震えていた。
そのとき、店の外で車のドアが閉まる音がした。ガラス越しに、黒いワゴン車のライトが消える。
篠原が素早く灯りを落とした。
「裏口は」
「……あります」
「その二つを持って。早く」
澪はカードと紙片をエプロンのポケットに押し込んだ。篠原は作業台の懐中時計をコートに滑り込ませた。暗がりの中で、彼の手が澪の手首を掴む。乾いた、温かい手だった。店の表で、ドアノブが回される音がする。鍵はかけてあった。次に、ガラスを叩く鈍い音。
裏口から路地へ出ると、雨が頬を打った。篠原は澪を自分の背に隠すようにして走った。石段を下り、市場の軒下に滑り込む。息が白い。肩が触れ合うほど近くで、彼の鼓動が聞こえる気がした。
澪はポケットの上からカードを握りしめた。もしこの人が篠原の名を騙っているだけなら。父を殺した側の人間なら。逃げ道のない軒下で、自分は彼の思うままだ。けれど、掴まれた手首には、まだ彼の体温が残っていた。走るあいだ、彼は一度もカードを寄こせとは言わなかった。
「どうして、私を連れてきたんですか。時計だけ持って逃げればよかったのに」
篠原は少し黙った。
「あなたのお父さんは、僕に電話をくれたんです。亡くなる前の晩に。『預かり物の中身を見てしまった。娘にだけは関わらせたくない』と。翌日、店に来るはずだった。僕が着いたとき、店には救急車が停まっていた」
澪は唇を噛んだ。父が最後に心配していたのは、自分だったのだ。
「三週間、ずっと迷っていました。取りに来れば、あなたを巻き込む。でも来なければ、奴らがいつか店を探す」
遠くでサイレンが鳴った。篠原が呼んでいたのだと、澪はあとで知る。ワゴン車は表通りで止められ、男二人が連行された。港湾会社の警備員を名乗る男たちだった。
夜明け前、警察署の廊下で、篠原は澪に缶コーヒーを差し出した。
「カードの中身は、兄が集めた密輸の記録でした。これで兄の件も、お父さんの件も、もう一度調べ直してもらえる」
「よかった」
言ってから、澪は自分の声が掠れていることに気づいた。張りつめていたものが、ほどけていく。篠原がそっと隣に座った。
「怖い思いをさせて、すみません」
澪は首を振った。「父の最後の仕事を、終わらせてくれました」
「時計は、どうしますか」と澪は訊いた。「まだ、受け取っていませんよ」
篠原はコートから懐中時計を出した。裏蓋は、慌てて閉めたせいで少し歪んでいた。
「直してもらえますか。今度は、何も隠さずに」
「時間がかかりますよ」
「待ちます。何度でも、取りに行きます」
澪は時計を受け取り、耳に当てた。秒針の音が、雨上がりの朝に小さく刻まれていた。父の手が最後に止めた時間の続きを、自分が動かしていくのだと思った。
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