ピアノソロ
眠る本の夜番
The Night Reader of Sleeping Books
この曲について
眠りかけた本を夜ごと声に出して読み、目を覚まさせていく書庫の物語から生まれた、アフリカン・ピアニズムのピアノ曲です。12/8 拍子で、右手の内声が刻むベル・パターン(タイムライン)に、左手のウォーキング・ベースと木琴風の2音の音型が3対2で噛み合います。両手で別々の拍を保ちながら、休符で始まる呼びかけの旋律を浮かせるところが弾きどころです。中間部では前半の呼びかけの旋律と同じ5音が F の長五音音階の柔らかな歌に変わり、フレーズの終わりごとに左手が3音の下行で短く応えます。再現部ではその歌がオクターヴの和音で ff に戻り、コーダではベル・パターンが2打まで減って、曲は D-A の空虚5度で静かに終わります。
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市立図書館の地下には、眠った本ばかりを集めた書庫がある。
最後に読んだ人がいなくなると、本は少しずつ眠りはじめる。まず句読点が抜け、次に漢字がほどけて平仮名になり、やがて頁はただの白に戻る。私の仕事は、夜ごとそこへ降りて、眠りかけた本を声に出して読むことだ。誰かに読まれているあいだ、文字は紙の上に踏みとどまっていられる。
夜番について三年目の冬、館長の三輪さんが一冊の薄い本を差し出した。
「これはもう、かなり深いところまで眠ってる」
布張りの表紙は色が抜け、題名も読めない。開くと、頁の大半が白かった。ところどころに、ひらがなが砂粒のように残っているだけだ。
「誰が最後に借りたんですか」
三輪さんは裏表紙の貸出カードを指で叩いた。図書館のものではない、手で線を引いた厚紙のカードだった。日付は四十年前で止まり、その下に鉛筆の名前がひとつある。けれど、かすれて読めなかった。
「寄贈の本でね。作者の名前もない。このカードの人のほかに、借りた人はいない」
その夜から、私はその本を読みはじめた。白い頁は読めないから、残った文字を拾って声にする。
「……の、……は、……うみ……」
意味にはならない。それでも読みつづけると、翌晩には文字が少しだけ増えていた。「うみ」のとなりに「ちいさな」が戻り、その前に「あおい」が戻った。本は、読まれたところから目を覚ます。けれど声にできるのは残った文字だけで、白いところは白いままだった。
毎晩、帰りぎわに頁をめくって確かめた。戻ったことばは、どれも海のことばかりだった。なみ、しお、すなはま。けれど、それが誰の海なのか、本は教えてくれなかった。
十日たっても、本は半分も戻らなかった。
「足りないんです」と私は三輪さんに言った。「読んでいる私が、この本をもともと知らないから」
三輪さんはしばらく黙ってから、古い寄贈台帳を出してきた。その本の欄には、寄贈者の住所だけが書いてあった。図書館から歩いて十五分の、川沿いの町だった。
住所の家には、まだ表札がかかっていた。出てきたのは背の曲がった老人で、私が本を見せると、長いあいだ表紙を撫でていた。
「書いたのは私です。妻が入院していたときに、毎週一話ずつ書いて病室に届けた」
奥さんは海辺の町の生まれで、病室の窓からは海が見えなかった。だから彼は海の話を書いた。小さな青い魚が、陸に上がった女の人を探して、川をさかのぼっていく話だった。
「書きためたら製本して、図書館に置いてもらおうと妻が言いましてね。そのときは自分がいちばんに借りるからって、私の作ったカードに、先に名前を書いた」
奥さんが亡くなったあと、彼は本を手もとに置いておけなくなった。家に置いておくと、毎晩続きを書こうとしてしまうからだ、と彼は言った。図書館なら誰かが読んでくれると思って、届けた。
「でも、誰も読まなかったんだな」
「奥さんが、ただひとりの読み手だったんです」
老人は、話をほとんど忘れていた。四十年は長い。魚がどこで何に出会ったのかも、思い出せないと言った。
「でも、本のほうも全部は覚えていません」と私は言った。「ふたりで読めば、足りるかもしれない」
次の晩、老人は杖をついて地下の書庫に来た。私が残った文字を読み、詰まったところで老人が思い出したことばを足す。「あおい ちいさな」と私が読むと、「さかなは、なまえを持たなかった」と老人が続ける。すると白い頁に、その通りの文字が滲むように浮かんだ。違うことばを言ったときは、何も浮かばなかった。本は、正しいところだけを受け取った。老人は、ことばが浮かぶたびに小さく頷き、ときどき眼鏡を外して目をこすった。
三晩かかった。魚は川をのぼり、橋の下で眠り、雨の日には水たまりを渡った。そして最後の頁の手前で、川の終わりにある病院の窓の下にたどり着いた。そこで老人は長く黙った。
「結末は、書かなかったんです」と彼は言った。「最後の一話を届ける前に、妻は」
最後の頁は、はじめから白だったのだ。眠っていたのではなく、まだ書かれていなかった。
私は鉛筆を差し出した。老人は首を振り、それから受け取った。震える手で、彼は白い頁に短い文を書いた。私はそれを読まなかった。そこを最初に読むのは、私ではないと思った。
本を閉じると、裏表紙のカードの名前が、四十年ぶりにくっきりと戻っていた。やわらかい、少し右に傾いた字だった。老人はその下に、自分の名前を書き足した。二人目の借り手だった。
本はいま、地下ではなく一階の棚にある。眠りかけの印だった青い札は外した。ときどき誰かが借りていき、カードの名前は少しずつ増えている。返ってくるたび、私は最後の頁だけは開かずに、そっと棚へ戻す。
楽譜の詳細
- 演奏形態
- ピアノソロ
- 楽器
- ピアノ
- ジャンル
- アフリカ / アフリカン・ピアニズム(アフリカの芸術音楽)
- 難易度
- 中〜上級
- 演奏時間
- 約2分54秒
- ページ数
- 3ページ
- 整理番号
- AP-M8PEM




